ネトウヨカトリック・サーディアのブログ

日本カトリック界隈をネトウヨするサーディアの記録

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【詳報】菊地司教と信徒らの議論

事の発端は菊地司教の謎ツイート。
要するにwatchしてたらミスでツイートしてバレたってことですね。焦ったのか2回。
これだけなら笑って済ませられる案件なんですけど、
菊地司教がwatchしてた話題が話題だけにそうもいきません。
詳細は上の菊地司教のツイートの時間の部分をクリックすれば出ます。
興味のある方は、読まれるとよいでしょう。

簡単にまとめます。
発端は3/6の一念通天さんの軍関係者の生活さんへのツイート。
ここで紹介されている記事について書いたのが【詳報】若者たちの右傾化です。
カトリック信徒であっても、このようなイエズス会社会司牧センターの記事に
義憤を覚える者も少なからずいるということを、知ってほしくて先に片づけました。

さて、おそらく未信徒?(※カトリックでは信徒でない人をこう呼びます)の方々が、
カトリックって共産主義と協働してたりして臭いよなっていう話に、と、信徒よはねさんがからんでいったのが議論の始まりでしょう。

引用されている現代世界憲章をかみ砕けば、
無神論の共産主義者が、仮に喫緊の核戦争に反対するとして、
だからといってカトリック信徒が、逆にその核戦争に賛成するわけはなく、
共産主義者とカトリック信徒でも喫緊の核戦争反対のため協力・協働する。

核戦争のようにわかりやすい話ならば、
自分サーディアも共産主義者と共に反対活動をしますが、
日本における国旗国歌の扱いについてとか、
原子力発電を含めた国家の電力エネルギーのベストなあり方とか、
そういう議論の余地のある話題になってくるとです、
共産主義者と間違った目的のもとに共に反対したら、
何を共通項に共に反対、協力しているんですかって話になります。
無神論や共産主義を共通項にしてるんですか? カトリックが?
そんな宗教は偽物じゃんと、こういう意見も理解できます。

平時におけるカトリック信徒と共産主義者との協働など、
慎重に慎重を期して行われなければなりません。
誰の目から見ても正しい目的のための協働かどうか、慎重であるべきです。

率直に申せば、ネトウヨカトリック・サーディアは、
日本司教団は間違った目的に奉仕するために共産主義者たちと、
「正しい目的のためなら共産主義者とも協力する」などと誤魔化をし、
無神論的、共産主義的活動に援助・協力、
または参加しているのではと疑惑を持っています。

このような疑惑を持つカトリックの人たちのことを聖座忠誠派と、
即ち教皇(聖座)へ正しく忠誠を捧げるために、
日本司教団の活動を注視し、反聖座的活動に反対する、そう呼ぶこともあるそうです。
そういう意味でなら、ネトウヨカトリック・サーディアは、
聖座忠誠派カトリック信徒サーディア(仮名)です。

さて、話を議論に戻しましょう。
共産主義にかぶれてカトリックの本分を忘れてるように思われる信徒も
残念ながら少なからずいるようですから、軍関係者の生活さんの疑問も当然でしょう。
またわかりにくいお答えですね、司教様。
霊的指導の必要のないキリスト者はいない。誰もが霊的に不完全であるから。

でも、言葉通り過ぎる回答ではありませんか?
共産主義の影響を強く受けている信徒がいたら特に注視せねばならないのでは?
99匹の健康そうな羊と、1匹の弱った羊がいたら、
その弱った羊に特に注視しなければならないように。

「その上で」菊地司教様は仰います。
ある個人、ここではよはねさん、への個別の指導が必要なら、
司教様や司教様の協力者である司祭が奥の小さな部屋で1対1でヒッソリと、
本人の秘密も守られるようにやるべきであり、
外科手術を公開ショー・大道芸のように公の場でやらないように、
「私的領域」でやるべきで「公の場でのお答えにはそぐわない」。
司教として、ツイッターであれこれ言うべきでない話題です、と。
そういうことですよね? 違うのかもしれません、ここ大事なポイント

そうだとして、共産主義にかぶれた信徒が特に霊的指導を受けるべきかへの回答にはなっていません。
菊地司教様は軍関係者の生活さんの質問に実質回答していない
なので軍関係者の生活さん、ツッコミを入れます。
(゚д゚ )?
司教様、オイラ信徒になって日が浅いせいかわからないんですが、
共産主義への破門制裁は廃止された、それはいいです。
しかし問われたのは制裁措置ではなく
「(特別な霊的)指導はなされないのでしょうか」と問われたのでは?

「制裁」がなくなったので、

教導職は個人の内心の自由には介入しません

ちょっと意味がわかりません。
共産主義への傾倒、後述がありますが、即ち「宗教と相容れないもの」への傾倒、
それは「個人の内心の自由」ではないのでは?
自分サーディアには「自殺は個人の自由」と言っているのと同じに聞こえます。
希死念慮、自殺願望にとらわれている人間への「制裁」は廃止された。
良いことだと思いますよ。必要なのは「制裁」ではなく精神的治療や霊的指導でしょう。
しかし自殺は止めねばならないのでは? 隣人として止められる立場にあるならば。
「介入しない」のですか? 自分には理解できません。
生と死は相容れません。
宗教カトリックと共産主義は相容れません。理解できます。
カトリック信徒が共産主義に傾倒する。
宗教的に「自殺に傾倒する」のと何が違うのでしょう。理解できません。
そして自殺に傾倒する者を放置するのが正しいというのも理解できません。

以下、多少続きますが菊地司教は新しい事を述べておられず、
繰り返し聴衆に説明をなされている形なのでここでは紹介しません。

さて菊地司教へ、この文章をツイッターで@をつけて送ってみたいと思います。
自分サーディアは何を「誤解」しているのでしょうか。菊地司教へ回答を求めます。

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